片町の「かぶ菜」で、日本海の幸を堪能する。

冬の金沢らしい曇天、夕方には雨がパラついた一日だった。暗い雲が一面、空を覆う典型的な冬の北陸だ。こんな空を見ると、いつも、50年前に大学受験で上京した時のことを思い出す。東京の天高い空と北陸の鉛色の空の極端なまでの対比だ。

私の人生は東京にある。ふるさと石川は遠きにありて思うところだと思っていた。そして半世紀が経った。OUEN Japanを立ち上げ、私ができる地域活性化、地方創生を私のミッションと思うに至った。それは一つは九州であり、もう一つはふるさと石川である。こんなことでふるさと石川を想うことは、心のふるさとは石川なのだとちょっとホッとする。根無草ではなかったのだと思うのだ。ふるさとのために貢献しようと切に思う。

昨日はOUEN塾の協賛企業の会宝産業、菱機工業、加賀建設の3社を訪問した。皆さん快くお話しを聴いていただいた。
コロナが落ち着いたら頻繁に石川に出張して協賛企業全社を訪問したい。加えて新たな企業も開拓したい。

オフラインOUEN塾(学生による企業訪問)は来年9月に開催する予定だ。オリンピック・パラリンピックは何とか夏に開催されるのではないか。その勢いでOUEN塾に突入することができたらと思う。

昨日は片町の「かぶ菜」で日本海の幸を堪能した。お目当ての香箱蟹は一番にいただいた。GO toトラベルで観光客のお目当ては香箱蟹なんだとか。一時は一匹4,000円もしたと。値段は少し落ち着いたようだが、何とか食することができて金沢に来た目的を一つ達成した感がある。 そんなことでかぶ菜で鱈腹いただいたせいもあり、ドーミーイン金沢の「夜鳴きそば」を食することは遠慮した。今夜はどうだろうか。

7時に朝食。8時15分にLNSジャパンの戸田社長がドーミーインに迎えに来ていただき、能美根上の本社を訪問する。
今日は5社訪問。ちょっとハードスケジュールだ。
夜の尾山町「そばのはな」が楽しみだ。

小林 博重

3泊4日の金沢出張

今日(10日)から13日まで、東京発6:16発のかがやきで、3泊4日の金沢出張。ビジネスパートナー野本さんと同行だ。

金沢まいもん寿司チェーンを運営しているエムアンドケイの木下社長から同社関連会社で展開しているビジネスサポートをお願いされた。そのサポート出張だ。

OUEN Japanは、学生の応援団(OUEN塾)であるとともに、学生を応援してくださる企業の応援団(OUEN COMPANY)でもある。そんなことで、エムアンドケイさんにもOUEN COMPANYの1社になっていただこうと思う。ということで、今回はOUEN塾協賛企業の8社を訪問する。

また、今回は食の楽しみもある。12月の北陸は海の幸で溢れている。特に、私は香箱ガニに目がない。能登に住んでいた幼少期には、冬のおやつとして鱈腹食べていたものだ。
この蟹はズワイガニ(石川県では加能ガニのブランドだ。福井県では越前ガニ、山陰では松葉ガニ)の雌だ。香箱の内子がまた絶品だ。繁殖のため、2月には禁漁になるので今しか食すことができない。野本さんは金沢は初めてだとか。香箱ガニを堪能していただこう。
そして、13日(土)は金沢観光だ。私も金沢には高校時代の3年間しか住んでいなかったこともあり、ゆっくりと金沢観光はしたことがない。兼六園、ひがし茶屋街、長土塀、21世紀美術館、近江町市場、四高記念館等々、金沢は日本屈指の観光都市でもある。楽しみだ。

昨日、オンライン[OUEN塾in金沢/石川]の実施報告書が纏まった。私も実行委員長として「ご挨拶」(下記)を書いた。来年9月にはコロナが落ち着いて、大々的にオフラインOUEN塾を開催したいものだ。

小林 博重

実行委員長の感想と次回への期待

ご協賛企業、後援団体並びに各大学の皆様には日ごろから一方ならぬお世話に預かっております。心より厚く感謝申し上げます。

OUEN塾は、福岡県にて、本年2月14日から4日間に亙り、第3回を開催しました。福岡・北九州と東京のリーダーが運営をリードしましたが、本年9月に石川県にて第1回を開催する計画でしたので、金沢工業大学の2人のリーダーもオブザーバーとして参加しました。

OUEN塾開催のおり、コロナはひしひしと日本にも迫ってきておりましたが、何とか無事に終えることができたものの、4月の緊急事態宣言に始まるコロナ禍の状況では、9月開催予定の第1回【OUEN塾in金沢/石川】の開催は覚束なく、断腸の思いで、5月に開催を断念することを決定して皆さんにご連絡させていただいた次第です。

しかし、学生リーダーたちは、せっかく多くの企業の皆さんがOUEN塾にご協賛いただいたのだから、オフラインOUEN塾は1年延期するのはやむを得ないが、オンラインで開催できないものか。それは、彼らの何回かのZoomミーティングで決定したことでもあり、「それでは責任を持ってオンラインOUEN塾を開催してみなさい」と話しました。
勿論、経過報告は定期的にOUEN事務局に報告してもらい、OUEN塾の目的を逸脱することがないよう事務局はチェックすることにいたしました。
おかげさまで、紆余曲折はありましたが、何とか無事開催することができたとほっとしております。

まだまだ至らないところはありますが、何とか無事に開催したことは彼らにとって、大きな自信になったことと思います。そして、来年9月のオフラインOUEN塾のベースづくりになりました。

これからは1年間を通して、オンラインとオフラインのOUEN塾をそれぞれ1回ずつ開催していきたいと考えております。
来年の9月には、コロナも落ち着き、第1回オフライン【OUEN塾in金沢/石川】が開催できることを楽しみにしております。

まだまだよちよち歩きのOUEN塾ですが、『石川県の地方創生』の一助になることができれば、と高い志を持って頑張ってまいります。

コロナが落ち着きましたら、私はもっと頻繁に石川県に出張し、皆さんの忌憚のないご意見を拝聴し、皆さんのお役に立つことができるOUEN Japanになっていくことをお誓い申し上げます。

引き続き、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

【OUEN塾in金沢/石川】実行委員会 委員長 小林 博重

小林博重=OUEN DANCHOの3つの応援 団

私がこの世に生まれてきたミッションを考える。天は人をこの世に送り出すにあたり、何かをなすというミッションを与えて送り出す。私に与えられたミッションとは何か?

私はそのミッションを果たすために、遅まきながらOUEN Japan を設立したのだと思うに至った。

小林博重は、大学生や留学生の応援団であり、彼らを支援してくださる企業の皆さんの応援団だ。彼らを応援することが私たちが住む日本を応援することになる。地方創生だ。

すなわち、
小林博重=OUEN DANCHO https://ouen-dancho.jp/は、3つの応援団である。
⑴学生の応援団(OUEN塾)
http://ouen-japan.jp/
未来を担う若い力を応援するボランティア。自らの頭で自らの将来、日本の未来を考えることができる若者を育てたい。グライダー人間から飛行機人間への脱皮を目指す。
⑵企業の応援団(OUEN Company)
https://ouen-company.jp/
ビジネスマッチングとビジネスコラボレーションサポート。
OUEN Japanを応援していただく多くの企業の皆さんを応援していきたい。
⑶地域の応援団
学生と企業の連合軍で、地域を活性化し地方創生を図る。

今月の出張(10日〜13日)は、⑵企業の応援団として、石川県に出張する。金沢市を中心としたOUEN塾の協賛企業の訪問だ。
来年以降は、⑴⑵⑶を有機的に結び付けて、石川県の地方創生に貢献したいと思う。

そんなことを考える。来年はその実現化に邁進していきたい。

小林 博重

取り留めもない話

昨夕は17時半には帰宅して風呂に入り、18時過ぎから夕食だった。特に接待がない時には19時前後から夕食を摂る。いつもより少し早いか。そして、20時前には床に就く。もうこんな生活が当たり前になった。出張の時は接待があることが多いので、こんなことはない。マイペースなのだろう。どうにでもなる。眠くなったら眠る。目が冴えて眠れない時は起きて仕事をする。それが習い性になった。

やはり、5時間くらい寝るとトイレに目が覚める。すぐ眠る時と目が冴えて眠れない時がある。1時間くらい床に就いていて眠れない時は、何時であっても起きて徒歩2分の事務所に出掛ける。

今日は1時過ぎに事務所に着いた。日めくりをめくり、ベランダの植物に水を遣り、今は加湿器と暖房を付ける。パソコンでメールを見て、返信や送信する。NHKのラジオ深夜便を聴く。今日の2時台はベートーベン、3時台は岡千秋だ。どちらかと言えば私は演歌の岡千秋だが、真夜中に聴くベートーベンも悪くはない。こんな時にしかクラシックは聴かない。

メールは昨日訪問してプレゼンでお渡しした資料の送付だ。それなりのコメントを付ける。

私は初対面の人でも長年付き合った人のように打ち解けることが多い。これは私の特技ではないかと思う。人と人との関係は鏡のようなものだ。こちらが心をオープンにすると、相手もオープンになってくれる。勿論、人を見て、そのオープン度合いを考えなければならないが、相手から本音を聞き出そうと思ったら、こちらがオープンにならなければそれは果たせない。当たり前のことだ。

私の応援哲学の一つは「応援はキャッチボール」だが、人との付き合いも同様だ。人の心はそんなものだ。何も難しいことはない。それが如何に何気なく自然体であるかどうかだ。

「東大出てもバカはバカ」という豊田有恒さん著書が発刊されている。豊田さんは東大理Ⅱ(医学部)合格、東大に嫌気がさして慶應医学部にチャレンジして合格。現在はSF作家、推理作家、翻訳家、評論家。島根県立大学名誉教授。日本SF作家クラブ会員。

その本に名前が出ている人たちは誰もが知っている有名人ばかりだ。
その人たちがバカだとは、そんな恐れ多いことは私ごときでは言えないが「東大出てもバカはバカ」というのは、私はよく分かる。
それは、二十歳前に東大を受験して合格しただけなのだ。東大は偏差値が高いだけで合格する。

勿論、東大卒には超一流の人たちは多くいるが、そうでない人たちの中には、世間で通用するしない人が少なからずいる。
偏差値と、人間性豊かな人や世の中を真面に渡ることができる人とは全くリンクしない。曰く「東大出てもバカはバカ」なのだ。上から目線でしか世の中を見ない。自分が全てに優秀だと錯覚している。なまじ偏差値が高いだけ始末に悪い。

東大卒の劣等生はそのように思う。Amazonで買って読んでみようか。

取り留めもなくこのようなブログを書いて、5時を過ぎた。そろそろ自宅に帰って寝ようとするか。2時間は眠ることができるだろう。

朝食を摂って10時に渋谷だ。9時
半に家を出れば充分間に合う。

小林 博重

なくなった師走の作業

毎年、今頃は、OUEN Japan 望年会の座席表作成と年賀状書きで、殆ど事務所で過ごす毎日だった。

OUEN 望年会の座席表作成は、約200名の方々を22席のテーブルに分ける作業だ。
それぞれのテーブルには意味がある。意味があるメンバー構成を考えての作業だ。これでいいか、いやこれがいいのではないかと、ご出席いただく方々のお顔を頭に浮かべながら座席表を作る。
一旦作ってコピーしてまた作り替える。10度どころではない。そのため、皆さんのお名前やお顔どころか、キャリヤや性格等が頭に叩き込まれる。その作業は私にとって他者との差別化のベースになっている。

今年はその作業はない。OUEN 望年会は3密の極みであり、ご出席者の平均年齢は50歳代か、いや還暦に近いかもしれない(新型コロナで重症化リスクが高い65歳以上の高齢者とか何とか、毎日テレビで放送している。OUEN望年会はとんでもないイベントになる)。

また、年賀状もこの時期に書いていた。もう10年が経つだろうか。どうしてか分からないが、11月下旬だったろうか。年賀状を書こうと思って住所録の整理をしていたのだろう。何かの弾みか、データが消えてなくなってしまった。ゼロから作ることなど、そんな時間はない。 それから宛名を手書きで書くことにした。400枚弱の年賀状の宛名書きと個別のコメントを書く。結構時間がかかって腕が疲れる。 しかし、この作業もOUEN 望年会の座席表作りと同様の効用があるのだ。

私のビジネスやボランティアは人さま同士をつなぐことを生業としているから、このような作業をする意味はアナログの極みではあるが、それが私のレーゾンデートルになっているのだ。

今年は、その作業はなしだ。年賀状書きは、年明けの正月3が日にしようと思う。それが本来の年賀状だろうから(ただ一つ、来年は、住所録データを1年かけて作ることにする)。

年賀状と言えば、11月下旬から喪中ハガキが届く。もう30枚は届いただろうか。殆どが親御さん(伴侶の親御さんを含めて)の喪中だ。 皆さん殆どが80歳後半から90歳代だ。100歳を超えて天寿を全うされた親御さんもいらっしゃる。人生100年なのだなと実感する。

しかし、皆さんの中でピンピンコロリの方は殆どいらっしゃらないだろう。健康寿命との差は、10年前後だとか。私は100歳現役と思っているが、そのためには心身ともに鍛えることだろう。頑張ろうと思う。それは日本のためだ。

来年の12月はOUEN望年会の座席表作りに精を出していたい。そして、再来年の正月3が日は年賀状書きだ。
コロナが落ち着いて、そんな1年後であってほしいと思う。

小林 博重

「温かい人脈」とは、

私が何とか社会に爪弾きされずに生きていることができているのは、勿論、妻のおかげであることは間違いないが、加えて、私の性格に依るところが大きいのではないかと自負している。

オープン(ちょっとオープン過ぎるところがあるが、それがまた良いところでもある)で、少し図々しいが、それでもあまり嫌われなくて相手の懐に入っていけるところ。甘ちゃんでお人好しなところ。独立してからは、それなりに世の中の辛酸を舐めて生きているが、それが僻みになっていない。寧ろ、真っ直ぐな性格が少し妥協することも覚えて、柔軟な考え方も身に付けるようになった。そして、真っ直ぐな性格はより堅固になってきている。メンターには、人とのそれぞれの距離感を保つことを意識するようにと言われるが。

私のような「誰とでも仲良くなれる」キャラクターの人間でも、人間である以上、好き嫌いはある。好き嫌いは人以上だろう。

若い時は、気が合わない人とは付き合うことをさけて生きてきた嫌いがあるが、それはサラリーマンであったこともあるだろう。それなりに付き合ってきた。それがブチ切れて会社を飛び出してしまったのだが、今となっては、結果オーライというところか。 一匹狼になると、サラリーマン時代よりももっと気楽と思いきや、決してそうではない。それは「人間は独りでは生きることができない」からだ。
特にお人好しでオープンな私のところにはいろいろな人が集まってきてくれる。その中には気が合う人ばかりではない。気が合わない人であっても私を利用しようとする人たちが、手練手管で寄ってくる。 そのことは、感が鈍い私であっても直感で分かるようになってくる。独りで生きるとなると直感というのか第六感というのか、それは研ぎ澄まされてくるものだ。
その人たちが箸にも棒にも引っかからない人であれば付き合うことはしないが、私が持っていない「優れたところ」を持っている人(私の凸凹の凹んだところを埋めてくれると思うからだろう)であれば、気が合わない人であっても上手に付き合うことが大人の対応だと思う(肝腎要の「生きる哲学」を曲げることはしてはならないが)。

一匹狼が世の中を生きていくことは容易くはないが、考え方を柔軟にすることができれば、人の話を素直に聞くことができれば、もっとベターな生き方があるのだろうとも思う。

検索エンジンで「気が合う人」を繰ってみた。
気が合う人は波長が合う人であり、それは出会ってから短期間で分かるとか。そうだなと納得する。

気が合う人の特徴
①第一印象がかなり良い。ピンとくる感覚だ。
②長く一緒にいても気疲れしない。
③家庭環境・境遇が似ている。
④趣味が同じである。
⑤興味・関心に共通点が多い。
⑥会うだけで元気(笑顔)になれる。
⑦会話していると共感・同意が多い。
⑧価値観やプライオリティが似ている。
⑨笑いのツボが同じ。
⑩自分と見た目や雰囲気が何となく似ている。

大体そんなものかと同意するところは多い。
以心伝心。人の心は鏡のようなもの。私がそう思えば相手もそう思う。そうありたいものだ。

人との距離感は個別だが、できるだけ近い距離感の人が増えることが、私が思う「温かい人脈」につながるのだろう。

小林 博重

二人合わせて「人徳ある人間」になる。

よく私は「人が好い」と言われる。あまり人を疑わないのだ。それが「人徳」だと言うことなのか。
人のものを掠め取るような人間は、その時は成功したように見えても、長い目で見ると、そのような人には人は付いていかない。

坂本龍馬は言っている。
〜金よりも大事なものに「評判」というものがある。世間で大仕事を成すのにこれほど大事なものはない。金なんぞは、評判のあるところに自然に集まってくるさ〜と。

評判とは、人について言えば「人徳」のことだろう。人徳のない人には人はついてはいかないし、そんな人は長い目で見ると決して成功はしないだろう。

しかし、「人が好い」だけではビジネスは成功しない。それは「人が好い」=人徳ではないからだ。
私が今まで68年生きてきて、もう人生の後半戦の半ばに近づいているのに成功とは程遠い人生を送っているのは、単なる人の好さだけであって、それを人さまは「人徳」と言ってくださっているのだろう。ほんまものの「人徳」ある人間にならなければいけないと切に思う。

稲盛和夫さんは中小企業経営者に「両極端の能力を持て」とお話しされる。

『京セラフイロソフイ』から

今、私は、大胆さと細心さ、温情と冷酷、合理性と人間性の両極端を併せ持ち、かつそれを場面に応じて使い分ける能力が必要だと言いました。これがいかに難しいことか、少しお話ししてみようと思います。

例えば、本田技研が成功したのは、スパナ一本、ハンマー一挺で、素晴らしいエンジンやオートバイをつくることができた本田宗一郎さんというものづくりの天才と、会社を経営するという面で、経理に明るく金勘定のできる藤沢武夫さんという名番頭の二人が揃っていたからです。
また同様に、松下電器は、あの松下幸之助さんと、これも名番頭と言われた高橋荒太郎さんの組み合わせがあり、ソニーの場合、技術者である井深大さんと、営業手腕に長けた盛田昭夫さんのコンビがあったから、それぞれ発展したと言われています。つまり、両極端の性質を一人の人間が持つことは難しいので、自分の不足を補う名参謀、名番頭が必要になるわけです。

ところが中小企業には、この例は当てはまりません。人材不足の中小企業で、そのような恰好な補佐役が簡単に見つかるはずがないからです。

ですから、中小企業では、トップである皆さんが相矛盾する両極端の能力を兼ね備え、かつ正常に機能させていかなければなりません。中小企業の経営者で大した才能があるわけでもないのに、そのような高いレベルの能力を要求される。しかし、泣いてでもそれをやらなければならないのです。私自身も、それができるようにこれまで頑張ってきたつもりです。

稲盛さんは、この両極端を併せ持った天才だ。しかし、私のような凡人はどうしたらいいのか。

人生の後半戦で、自らの不足分をカバーする努力はコスパを考えると無駄のように思われる。
それよりも自らの得手に磨きをかけることだ。物事の見方や考え方は、両極端を併せ持った発想を持つことが不可欠と思うが、私の能力の不足をカバーしてくれる名参謀、名番頭を探すことだろう。

そのためにも「素直な心」が何よりも大切だろうと思う。素直な心で、信頼がおける人たちのアドバイスを素直に聴く耳を持つことだ。

小林 博重

九州の地方創生と私の幸せ

夜に予定が入っていない時は、20時には床に就いて、その日に出会ったこと、起こったことを考えたり反省したりしながら、うつらうつらしているうちに寝入ってしまう。そして、2時半前後に起きて、こちらはうつらうつらしながら夢に見たことを思い出したり、その日にすることを考えたりして、だんだん眼が冴えてくる。そして、3時には起きて事務所に出かける用意をする。

いつ頃だろうか。これが私の生活パターンの一つになってしまった。
10年くらい前は、真夜中に眠れない時は結構ストレスだったが、これは天の思し召しで、眠れないのは「起きて仕事をしなさい」ということなのだと思ったら、全くストレスは雲散霧消した。 人間、考え方や見方次第で、身の周りに起こる全てのことは吉になったり凶になったりするものだ。

私は運がいい人間と思っており、実際のところそれはその通りなのだ。それは宇宙の大流であり、それに逆らわずに生きれば幸せがやってくると思っているが、それではあまりにも天任せになって、己の積極的意思が入っていない。それではいけない。「天は自ら助くる者を助く」というではないか。

自分で考えること、自立すること、行動することがなければ、道は開いていかない。天の力を引き出すのも己の意思、努力があっての天の力だ。

九州創生を考える。
長崎を起点に九州を元気にする。長崎イノベーションは長崎自身で考える。OUEN Japanはそのサポートをする。
しかし、長崎ファーストでは、アメリカファーストと同様、長崎は一人浮いてしまうだろう。
兄貴分の福岡の助けを借りることだ。長崎と福岡の間の佐賀も巻き込まないと中抜きになって上手くいかない。長崎・福岡・佐賀の九州北部で県を超えたコラボが不可欠だ。
そのためには県という自治体任せでは上手くいかない。民間の力、企業の力、学生を中心とした若者の力で九州北部創生を考える。それに、タイミングを見て自治体を巻き込む。それができて、九州全域に拡げていく。これはOUEN Japanがすることだ。

そんなことを考えていた。
昨日、事務所でデスクワークをしていた時、応援同期で慶應OBの太田秀和さんから電話があった。太田さんは元コクド。西武ライオンズ社長もしていた。人脈は豊富だ。OUEN 望年会にもいつも参加いただいている。 「近くに来たから、もし事務所にいるのなら行ってもいいか」と。
事務所で、長崎のこと、九州創生のことも話した。

太田さんから「佐賀も巻き込むなら、祐徳自動車の愛野社長とは親しい仲なので紹介しよう」と。
祐徳自動車は佐賀県鹿島市の佐賀県中南部を中心にバスを運行している地元優良企業だ。その他にもいろいろな事業を行っているとか。愛野社長とは、若い頃、西武バスに出向されていた時に親交を深めたのだとか。愛野社長のお父上は衆議院議員だった。地元の名家だ。1月の九州出張のおり伺うことになった。

たまたま、私が事務所にいたこと。その時、太田さんが外苑前のスタバでコーヒーを飲んでいて私を思い出して電話をくれたこと。太田さんが私の話を聞いて愛野社長を紹介してくれたこと。たまたま佐賀のことを考えていたこと。全てが揃ったおかげだ。

太田さんは「お前の人徳だよ。小林だから紹介するんだ。人脈イコール人徳ということだ。運がいいのも人徳なんだよ」と。

無私利他になろうとしても、その域には到底到達しない。しかし、「私は何をすればいい気持ちになるのか」と考え続けていれば「人の喜ぶことをすれば、いい気持ちになる」ことが人間の幸せだと納得できる。ストンと胸に落ちる。自分がいい気持ちになるために、人のために尽くす。それが少しずつ「無私利他」に近づいていく。そして、だんだん運がついてくる。「私は運がいい」と松下幸之助さんが仰る意味が分かってくる。

世の中はそういう意味で、非常に単純にできている。それが宇宙のプリミティブな原理原則なのだ。

小林 博重

私のビジネススタイルの原点

私は銀行時代はもう少しオーソドックスなビジネススタイルであったような気がする。
お堅い銀行員だから、あまり型外れであれば、お客様は信用してくれないかもしれない。勿論、銀行員は、その銀行の文化に感化されているから、銀行の数だけ銀行員のタイプはある。
私が21年間勤めていた安田信託銀行は、お人好しが多い印象があり、温かい人間が多かったようだ。あまり慇懃無礼な銀行員臭い人はいなかったが、今の私のようなは外れ者も、やはり銀行だけあっていなかった。私はその中でも銀行員としての常識はあまり持ち合わせていなかったと思う。 だから、よく21年間も勤めることができたものだと思うが、それは今思うことであって、今の自分から見たら当時の自分は銀行員らしかったのだろう。

44歳で銀行を退職し、甘ちゃんの私にとってどん底と思うような経験をしてきたことが、今の私のビジネススタイルを作ったのだろう。 私は自分をエリートと思っていたところがある。それが何も中身がないものであり、一本独鈷で生きていくにはどうしたらいいか先行き真っ暗闇になった時が試金石だった。
自分を変えることができず奈落の底に落ちるか、自分を客観的に見つめ、自分を180度変えて、混濁の世の中で、濁に染まらず真っ直ぐ生きていくか。いずれの道を歩いていくかだ。

自分を客観的に見つめることは、ある意味では怖いことだ。心の持ち様を180度変えることになるからだ。今までの自分を否定することにつながる。しかし、そうしなければまともに生きていくことができない。真っ直ぐ生きていくことができない。

私は何が得手なのか。
ゼロから素直になって客観的に自分を見ることができれば、身に纏っている役立たずの衣を脱ぎ捨てる勇気を持つことができれば、真っ直ぐ生きていくことができる。

①自分をオープンにすること
②そのままの自分を曝け出すこと
③自分は何も人を傷つける刃は持っていないことを、外連味なく人に伝えること
④自分の不得手、短所を曝け出すことができて、それを快くカバーしてくれるパートナーを見つけること
⑤そのパートナーとは、お互いが決して裏切ることがない同僚だと確信すること。お互いが信頼しあうこと
⑥適度な距離感を保ち、相手の立場を尊重しあうこと
⑦緩やかであっても強固な関係であること
⑧老若男女を問わず、対等な関係であること
⑨上から目線でなく、横から目線であること
⑩真っ直ぐな心、相手を思い遣る「恕の心」を忘れないこと

一言で言えば、応援の心を持つことだ。
好球を投げ、それを即、好球で返すこと。応援はキャッチボール。キャッチしたら、即ピッチすることだ。
その意味では、応援はせっかちになる。その感性がなければ、人を応援することができない。

これが私のビジネススタイルになった。そのベースに東大応援部の3S -spirits(サービス=奉仕、サクリファイス=活私奉公、スタディ=人間修養)があった。それがあったればこそ、私は立ち上がることができた。

私の座右の銘は「敬天愛人」
私のモットーは「応援人生」

この2つの言葉を肝に銘じて生きていこうと思う。

小林 博重

楽しく温かかった、私の誕生日会

11月30日はフロストムーン。私にとって最高の一日だった。西櫻亭(伊勢丹新宿)で
娘たちが私の誕生日祝いを催してくれたのだ。いつもながら宮下響シェフの心尽くし
の料理を堪能しながら、楽しく温かい会話が弾んだ。

娘たちと言っても私たち夫婦は3人の息子たちを授かったが、娘はいない。しかし、
天が授けてくださった。水谷歩さん、野本知里さん、崔?徑さん(ミンちゃん)、安
藤裕美さん(裕美ちゃん)の4人だ。それに、生命保険時代の大親友の中川美和子お
姉さんが加わった。

私にとって彼女たちは気の置けない家族同様の人たちだ。私が「世のため人のため」
と思って仕事(ビジネスとボランティア)に携わっていることができているのは、彼
女たちの支えに依るところであると言っても過言ではない。人は人に支えられて生き
ている。支えてくれている人たちに心から感謝したい。

みんなからのお花とプレゼントをいただき、最後に私から妻への「感謝状」を読み上
げた。野本さんの心憎いアドバイスだ。

あと32年+20年=52年の人生(と私は思っている)だ。人生行路の峠を越え下り坂を
下っているが、下り坂こそ生まれてきたミッションを結実させる黄金行路だ。心新た
に人生後半のスタートを切ろうと思う。

妻に送った感謝状

この手紙をお母さんに書こうと思ったのは、野本さんから「団長は、奥さんに今まで
苦労ばかりかけて生きてきたんだから、今度のお誕生日会に、奥さん宛に、これから
のことも含めて、『感謝状』を認めましょうよ。奥さんはとてもお喜びになります
よ」とアドバイスをいただいたことがきっかけです。

私がお母さんに手紙を書いたのは、たった一度。昭和55年に長男の泰博が産まれた時
以来、40年前です。これが2回目の手紙になります。

ところで、今日は、可愛い娘たちが、この誕生日会を催してくれました。とても大変
嬉しい一日です。

私たち夫婦はおかげさまで、3人の息子たちに恵まれました。みんな心優しい子ども
たちです。これは、100%、お母さんの教育に依るところです。小さい頃から、3
人の子どもたちを愛情いっぱいで育ててくれました。そのおかげで、彼らはすくすく
と、実に素直な心優しい青年に育ってくれました。心から感謝します。ありがとうご
ざいました。

しかし、残念ながら、私たちは娘には縁がありませんでした。お母さんが第3子を身
ごもった時、私は女の子と確信して疑いませんでした。名前は「郁恵」です。私は榊
原郁恵のような健康的な娘をイメージしていました。お母さんは「優子」でした。

結果は男の子の誕生で、その名はいずれも没になりました。そして、三男には、同期
で東北大学応援団長だった大親友の木島明博君の名前の「明博」と名付けました。

そんなことで、娘に縁がないのは天命だと諦めていましたが、人生半ばを過ぎて天が
可哀そうと思ってくれたせいでしょう。天は、このような心美しい娘たちを私に授け
てくれたのです。ありがたいことです。

ところで、私たちが巡り会ったのは、昭和53年12月、武蔵小杉の安田信託銀行川崎寮
のクリスマスパーティでした。それから1か月後に自由が丘の「木馬」という喫茶店
でプロポーズしました。電光石火です。

お母さんは、あまりにも突然のことで、さぞかしびっくりしたことと思います。その
時、お母さんが「ありがとうございます」と言った言葉を、今もしっかりと覚えてい
ます。

おじいちゃんは、一人っ子同士の結婚をなかなか許してくれず、毎朝3か月、おじい
ちゃんが出勤した直後に、外苑前の自宅に、日参しました。

おばあちゃんの応援もあってようやく許しをいただき、昭和54年11月10日、京王プラ
ザホテルで結婚式を催すことができました。出逢ってから11か月でした。

それからアッという間に41年が経ちました。「光陰矢の如し」です。

稲盛和夫さんとの出会いがあったからとは言え、「安田信託銀行の社長になるので応
援してほしい」とのお母さんとの約束は、44歳の「若気の至り」で果たすことができ
ませんでした。それからも、約3年の長患いや明治安田生命の退職。

お母さんにはまたまた思いつきと思ったでしょうが、南青山ビジネスパートナーズの
設立ばかりか、OUEN Japanまで。ビジネスセンスが全くない人間が、自分の能力も顧
みず、会社を立ち上げ、会社が軌道に乗っていたわけでもないのに、NPOでボラン
ティア活動とは。

「いい加減に家族のことを考えてほしい」というのが偽らざる想いだったでしょう。
ほとんど何の相談をすることなく、好き勝手で生きている自己中であったこと、お母
さんには無限大の借金を負っていることも自覚しています。

私は100年現役、あと32年です。それにプラス余生20年と思っていますが、あと52年
間、ずっと付き合って面倒を見ることはご免被ると思っていることでしょう。

しかし、私の夢を「見果てぬ夢」で終わらせたくない。そして、無限大の借金を有限
にしてこの世を旅立ちたいと思っています。

その旅立ちの間際に、お母さんが「借金は完済してもらいましたよ。そして、ちょっ
とだけおつりが出ましたよ」と言ってくれるように頑張ろうと思っています。

それまで、まだ長い年月ですが、どうぞお付き合いください。よろしくお願いしま
す。