私は、人生120年の人生設計をしている。あと50年あまりの後半人生だ。
齢70で漸く私の夏が終わり、これまでの前半人生を振り返ると、なぜかふるさと「能登」で過ごした小学生までのことが妙に懐かしく、強く印象に残って思い出される。

画家の梅野亮さんから、私が「能登の地域創生が私のミッション」と話したこともあって、添付の「七尾の街づくり」のプレゼン資料(添付)を送っていただいたこともそれに輪をかけた。

思い出すのは専ら祖父母のことだ。

祖母は礼儀正しく厳格な人だった。悪さをすると、よく瀬戸の柿の木に縛られた。いつもは「おばば」と呼んでいたが、そんな時は「くそばばあ」と悪態をついて、それで縄から解放されるまでの時間が長くなった。 また、思い出は、田んぼのそばにあった畑や裏山にあった畑での手伝いだ。家で食べる野菜くらいしかつくれない、猫の額ほどの畑だった。肥しを撒いたり、草むしりをしたり。 食生活では、祖母は生魚を食べなかった。そのせいだろう。私は刺身は食べることができない。
授業参観はいつも祖母が来てくれた。運動会の時の席取りも祖母だった。

祖母は私にいつも言っていた。「嘘をつくな。恥ずかしいことはするな。貧乏が恥ずかしいのではないぞ。人の道に外れたことをすることが恥ずかしいのだ」と。 凛とした、どこに出しても恥ずかしくない自慢の祖母だった。
祖母は95歳で他界したが、自宅の階段から滑り落ちる事故がなかりせば100歳までは生きただろう。
祖母には、妻と長男を見せることができたことが唯一の「おばば孝行」だった。

また、私に祖母は言っていた。「おじいちゃんをおじいちゃんと呼ぶんだよ。おじじではダメだ」と。
私は祖母を「おばば」、祖父を「おじいちゃん」と呼んでいたが、それは孫では内孫の私だけで、外孫はみな祖父を「おじじ」と呼んでいた。 かかあ天下の祖父母夫婦だったが、祖母は祖父を「金鵄勲章を貰った偉い夫」と尊敬していたのだろう。

それに対して、祖父は心優しい人だった。私は叱られたという思い出はない。菊づくりを趣味にしていて、町の菊の品評会にはいつも賞をいただいていた。七尾の青柏祭(5月の連休の時開催される)には連れて行ってくれて、台湾バナナと山藤屋のうどんを食べるのが、年一回のたいへんなご馳走だった。そして、いつも「ぼう、ぼう」と呼んで可愛がってくれた。

しかし、日露戦争の話をする時は、私に明治精神を叩き込む気合で話したように思う。金鵄勲章のこと、軍曹を辞退したこと。
人間として生きるとは、真っ直ぐな人生、堂々たる人生を生きるとは。祖父は私に『生きる哲学』を教えてくれたのだろう。

「三つ子の魂百まで」という諺があるが、これは真実だ。私が祖父母に育てられ、教えられたことは、今の私の生きるベースになっている。そして、東大応援部と稲盛哲学が、このベースがあったことでストンと私の血肉になり、私の人格を形づくってくれたのだと思う。

[能登の地域創生]
ふるさと能登を元気にする
ふるさとに錦を飾る
ふるさとはとおきにありておもふもの

想いがあってこそ、夢は実現する。能登の地域創生のサポートが私のミッションだ。能登から遠い東京の空の下から能登を想う。

実りの秋だ。
『能登の地域創生』を形にしたいと思う。

小林 博重
七尾街づくり提案書.pdf