2021年 6月 6日の投稿一覧

ストレスフリーは伸びる。

日経新聞夕刊に(株)ドーム会長の安田秀一さんが「SPORTSデモクラシー」というコーナーで書いているエッセイを好んで読んでいる。

安田さんは元法政大学アメリカンフットボール主将。アメリカンフットボール全日本大学選抜チーム主将。法政大学オレンジ総監督。根っからのスポーツマンだ。やはり本物のスポーツマンは爽やかでいい。言葉に偽りがない。

6月5日の記事の題目は「ストレスフリーは伸びる」だった。

スポーツマンの指導法について書かれているが、その中で「ストレスフリーが伸びる」のは犬の寿命でも裏付けられているのだと。なかなか説得力ある話だ。

現在の犬の平均寿命は14〜15歳だが、平成の初めは7歳ちょっとだった。30年間で平均寿命は7〜8歳延びたのには驚く。
その理由として、もちろん栄養状態が良くなったこともあるが、一番は「犬にストレスを与えないで育てる」ようになったことなんだと。 毎日の運動を欠かさず、しつけ方は「怒ってはいけない、叱らないこと」「いいことをしたら誉めること」。
そうすれば犬の性格は穏やかで、健康で、動作は俊敏になるのだと。

最近の大学の体育会はそのような育成の仕方をしているのだろうか。
半世紀前の東大応援部は、四年生は神様、一年生は奴隷が当たり前の応援団でも、東大は「ポーズはそうであってもお互いが対等な関係」だった。 肩組み合って東大の必勝を信じる、大らかで、牧歌的で、自由闊達なところがあった。
その点では人間関係にほとんどストレスは感じなかった。半世紀先を行く体育会だったのだ。

安田さんは、昨今姦しい「東京オリンピック・パラリンピック」の開催の可否について、様々な意見があるだろうに「政府関係者や自民党議員は開催を支持する意見のオンパレードだ」という。まるで、昔の大学の体育会だと。

21世紀は、個人が何の障害もなく、自分の能力を最大限に発揮できる社会、胸を張って自分の幸せを追求できる社会を目指すべきであるにもかかわらず、その先頭を走るべき人たちはそうではない。 大学体育会は政治家たちよりもずっと時代の先を行っている。

神様と奴隷の世界にいたと思われる大学応援部にどっぷり浸かっていた私がその真逆を言っている。私はその意味では一般に思われている応援部員らしくない。それだから、44歳で銀行を辞めたのだろうが。

自由気ままにそのままの自分の個性で生きている。それが一番の人生の幸せだと思う。それを許してくれている妻をはじめとする全ての人たちに深く感謝するものだ。

小林 博重

上善水の如し

私は、ここのところ、松下幸之助さんや稲盛和夫さんのような経営のカリスマが書いた「経営哲学」や「人間哲学」の本を愛するが、ほとんど小説を読まない。ただ、城山三郎さんの経済小説は、経営者の生きざまを学ぶことができて深く印象に残っている。

例えば、石坂泰三(通産省、第一生命社長、東芝社長、経団連会長)を書いた「もう、君には頼まない」や、石田禮助(国鉄総裁)を書いた「粗にして野だが卑ではない」は、心に残る伝記文学である。彼らの生きざまは私が理想とするところである。

「もう、君には頼まない」と言ってみたい(石坂泰三は時の総理にこの台詞を言った)。また、何があっても「粗野であっても卑である生き方は絶対したくない」

しかし、昨日のメンターからのアドバイスも深く心に留めようと思う。彼女が言わんとしたことは「『上善水の如し(上善如水)』のような人間を目指せ」ということか。

ネットで調べると「故事百選」で『上善水の如し』を解説している。

私の最も苦手とするところだ。黒田藩の始祖である黒田如水は腹に一物も二物も持っている「天下を狙っていた」曲者であったが、「水の如く生きる」ことを理想としていたので「如水」と名乗ったのだろうか。私は棺を覆うまでにそのような境地に辿り着くことができるだろうか。

小林 博重

上善は水の如し

最高の人生のありかたは、水のように生きるということです。水は自分の存在を主張しないで、低い方へ自然に流れていきます。水のようにしてこそ心穏かにすごすことができ、また円満な人間関係を創り上げることができます。

「老子」の八章に見える有名な言葉です。その本文をたどってみると、次のようになっています。
「上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に処る。」つまり「最高の善は水のようなものでなければならない。水は万物を助け、育てて自己を主張せず、だれもが嫌うような低い方へと流れて、そこにおさまる」と、述べています。

やや、難解かもしれませんが、老子の生き方を知るための鍵として取り上げてみました。 この他「水は方円の器に従う」「流水先を争わず」など水の性質を、「自由で流動的なものであるとする格言がみられます。
いずれにしても、なにが人間にとって大切かといえば、自由無碍でフリーに動け、しかも自分の存在を主張しないで、人のいやがることも自然に受け止めることだと教えてくれる格言です。

老荘の思想といえば、ともすれば消極的で受け身の教えとして受け取られています。つまり,水の流れにまかせて、無理をせずに自然の摂理に従うことが、人間の道にかなっているということから、「受動的で、積極的に動かない人生観である」と受け止められています。終局的には、山にとじこもっている隠者や仙人の教えが道教の真髄であり、人間の努力や執念から遠ざることが人間の生き方の目標であると理解されているのです。

しかし、「自然の摂理に従う」ということは簡単に実行できるようなことでしょうか。人生の目的は、「出世して名声博すること」「財をなして広大な邸宅に住み、美人を従え美酒・美食の贅を尽くすこと」「未知の外国を見聞すること」など、どれを取っても、自然にまかせるだけでは出来そうなものはなく、他人との競争に勝ちぬき、多くの人を犠牲にして、相当な無理をしなければかなえられない種類のものです。

また、欲望ははてしなく大きくなるのが特徴で、これでよいという満足の境地にはなかなかなれないものです。つまり、人間臭の多い、「欲望という電車」に乗った生活の方が「人の性」に近いのであって、生き方としては安易なものだと思えます。

しかし、「人の性」に従って、財をなし歓を尽したあとで、果たしてなにが残るのでしょうか。「歓多くして哀愁深し」ということが起こり、結局は人生を悔いることにもなりかねないといえます。