大学の先輩が私に「小林は借景でビジネスをしている。いや、借景で生きている。そう言うのを[怒厚かましい]と言うんだよ」と笑って仰ったことがある。また、ある社長は「小林さんは[怒厚かましい]にもほどがある」と。こちらは真顔だったから、本当に[怒厚かましい]と思われたのだろう。

[怒厚かましい]とは、たとえは語弊があるかもしれないが、「大阪のおばちゃん」の言動だ。愛嬌以上に嫌らしいところがある。こんな人間にはなりたくないと思う。そのように[怒厚かましい]は、一般的にはいい意味で使われない。

私の[怒厚かましい]は、先輩が言った前者でありたいと思う。

では、先輩が仰った『借景ビジネス』『借景で生きている』とは何か。先輩はその借景が「東大」であり「南青山」だと仰るのだ。小林に似合わないものが東大であり、南青山だと言うことだ。

私が東大を卒業し、南青山に住んでいることは紛れもない事実だ。しかし、それをビジネスにしている、それで生きている。これ見よがしにアピールしているということ。日本ではこの両者はブランドである。そして、そのどちらも私には似合わないから[怒厚かましい]ということになるのだ。しかし、私は、自らのパーソナリティも、ある意味でブランドであると自負している。私のパーソナリティに対する自尊や矜恃は、人一倍持っている。

借景(しゃっけい)
借景とは、景色(=景)を借りること、つまり景色のレンタルという意味だが、日本庭園の造園技法のひとつで、外部の景色を庭園に取り入れ(無断で、金も払わずに借りるので、実際は「パクり」である)、その景色も自分の庭の一部であると言い張る方法をいう。京都などの寺院の名園は、遠景を借景として庭の構成要素としているものが多いので、その景色の邪魔をするような建築物を建てようとすると(もちろん、その寺院からえらく遠い場所に)、「うちの庭にへんなものを建てるんじゃない」と思わぬクレームをつけられたりする。

そんなことで、私は「東大」と「南青山」をこよなく活用(決して、悪用はしていない)している。しかし、両者を自前の庭と思う怒厚かましさは持ち合わせてはいない)。

私の人生は「怒厚かましくても、何故か嫌われない、小林ならではのパーソナリティで、世のため人のために生きていく」人生でありたいと思う。

小林 博重