松下幸之助翁の側近であった江口克彦さんは『松下幸之助はなぜ成功したのか』で下記のように書いている。それは一言で言えば『素直な心を持つ』ということだろう。「自分がどれだけ素直な心で人生を全うできるか」それが成功の要諦だ。

小林 博重

松下幸之助は、「自然の理法は、いっさいのものを生成発展させる力を持っている」と考えた。だから、素直な心になって自然の理法に従っていれば、うまくいく。世の中は成功するようになっている。

ところが、私たちにはなかなかそれができない。自分の感情にとらわれる。立場にとらわれる。地位や名誉にとらわれる。自然の理法になかなか従うことができない。それゆえ、かえって状態を悪くする。無用な苦労をする。望むような結果が得られない。一人ひとりのとらわれが、争いになり、つまるところは戦争にまで至る。

自然の理法に従うならば、もともと人間には進歩発展する本質が与えられている。言葉を替えて言えば、平和、幸福、繁栄を実現する力が与えられている。

「それがうまくいかんというのは、とらわれるからや。素直でないからや。だとすれば、素直でないといかん、と。素直な心こそが人間を幸せにし、また人類に繁栄と平和と幸福をもたらすものであると、わしはそう考えたんや」

しかし松下の言う素直な心とは、人の言うことになんでもハイハイと答えるということを言っているのではない。無邪気な心のことでもなければ、幼児の心のことでもない。それだけでは、ほんとうの素直ではない。

「ほんとうの素直とは、自然の理法に対して、すなわち本来の正しさに対して素直であると、そういうことやな」

正邪、善悪、表裏の存在を知りながら、なおかつそれにこだわらない。偏らない。たんなる無心でもない。自分が悟ればそれでよしとするものでもない。素直な心になることは、決して易しいことではない。

「自然の理法に従えば、と言うたけどな、それは自然の理法に従っておれば、それだけでただ何もせんでええということではないんや。それは、きみ、わかるやろ」

自然の理法はやるべきこと、なすべきことをやっている。早い話がお日さまはきちんと東から出る。西に沈む。春が来て、夏が来て、秋が来て、そして冬が来る。

人間もやるべきこと、なすべきことをきちんとやれるかどうか。逆になすべからざることは絶対にやらない。そういう振る舞いができるかどうか。自然の理法に従うというのは、決してそう易しいことではない。

「まあ、わしはそういうようなことをみずから考えながら今日までやってきた。宇宙万物自然というものが、わしの先生でもあったわけやな。

わしの経営についての考え方は、経営というひとつの枠のなかだけで考えたのではない。わしはいつもその枠を越えて、宇宙とか自然とかそういうものに考えを及ぼし、そこで得られたわしなりの結論を経営に応用したんや」

経営についての松下の考えは、全体の考えの一部であって、決して全体ではない。多くの人が松下を「経営の神様」と呼んだが、ほんとうは松下が考え続けてきたのは宇宙のことであり、万物のことであり、自然のことであり、人間のことであった。松下は経営をやりながら、つねに人間の本質とはなにか、人間の幸せとはなにか、宇宙の本質とはなにか、自然の理法とはないかということを、考え続けてきた。天地自然の中に繁栄の原理を探してきた。これが松下幸之助のやり方だった。

PHP研究所の庭の左奥に、「根源さま」の小さなお社がある。松下は研究所にやってくると、まず最初に、必ず根源の社の前に円座を敷き、座禅をするように足を組んで座り、二~三分間ほど手を合わせていた。

根源さまとは神様でも仏様でもない。松下が勝手につくったものである。そして社のなかにはなにも入っていない。松下の「根源」という考え方が入っているだけである。

「あそこへお客さんを案内すると、必ず、根源さんというのはなんですかと聞かれるな。いちいち説明せんといかんけど、それがあの場所では面倒やな。ハハハ。

どうして根源という考えをわしが持ったかというと、こういうことや。考えてみればわしのような、なんも恵まれておらなかった者が、一応の成功をしたということは不思議やろ。それらしい説明は、聞かれればしてみせるけどな。正直言うと、なぜこうなったのか、ほんとうのところの理由はわしにも、ようわからんのや」

松下はあるとき、これは自分を存在させてくれたものに感謝しなければいけないと考えた。誰が自分を存在させてくれたのか。それは自分を生んでくれた両親である。ならば、両親に感謝しなければいけない。

だが、その両親はどうして存在したのだろうか。両親のそのまた両親からではないのか。その両親は、そのまた両親からということになるのではないか。それではその両親はと、どんどん考えていくと、ついには人間の始祖になる。とすると、人間はみんな始祖とつながっている。今日私たちがこうして存在していることは、両親やそのまた両親に感謝しなければならないのはもちろんのこと、初めての人間、すなわち始祖に感謝しなければ、とそう思ったという。

「ところがふと、それでは初めての人間はどこから生まれてきたのか、と思ったんや。いろいろ考えたんやけど、今度はそう簡単に答は出てこん。ずいぶんとあれやこれやと思いめぐらした結果、人間は宇宙の根源から、その根源のもつ力によって生み出されたんやと、うん、突然そうひらめいた。

そうや、宇宙の根源から生まれてきたんや。それは人間だけではない、宇宙万物いっさいがこの根源から、その力によって生み出されてきたんやと考えた。実際にそうかどうかは、わしは見ておったわけやないからわからんけど、そう考えるほうが便利いい」

「その根源の力にひとつの決まりがある。それが自然の理法というもんや。そしてその力には宇宙万物すべてを生成発展せしめる力があると。前に自然の理法は生成発展やと言うたのは、そういうことやったんや」

今日私たちがここに存在している、その源をたどれば、初めての人間を通り越して宇宙の根源にまでにいたる。そうすると、「ここに存在できていること」への感謝の思いは、実にこの宇宙の根源に対してでなければならないということになる。それで松下は、根源の社をつくった。

私はあるとき、ひょいと「根源の社の前にお座りになって、そのあいだ何を考えているのですか」と尋ねたことがある。

「うん、今日、ここに生かされていることを、宇宙の根源さんに感謝しとるんや。ありがとうございます、とな。それから、今日一日、どうぞ素直な心ですごせますように、すごすようにと念じ、決意をしとるわけや。ここはわしが感謝の意を表し、素直を誓う場所やな」

読者に根源の社を押しつける気持ちはまったくない。ただ、自分がそういう宇宙根源から、そして人間の始祖から連綿とつながっていると思えば、おのずと自分の値打ちの重さを感じる。そう感じれば、おのずと自分の人間としての重さを自覚する。そして、感謝の念が湧いてくる。

この感謝の気持ちを持ちながら、日々をすごすことが大切だと思うのである。

松下の毎日は感謝の日々であったといっても言い過ぎではない。それでもなお、感謝の思いが足らないと言って反省することが多かった。