2020年 9月 の投稿一覧

術策を弄してはいけない。

やっと本格的に秋に突入したようだ。今朝などは5時前に事務所に出かける時は長袖長ズボンでないと外出できないほどの気温になった。
今日は9月末。明日から10月に突入する。月末の送金をインターネットバンキングで終え、10月の準備作業をする。一日早いが、9月のカレンダーをめくり、10月に切り替える。一日先だが気分の問題だ。特に掃除機をかける必要はないのだが、10月のスタートだ。心を掃除する。 「先んずれば人を制す」という。できれば一日でも早く、仕事は先んじたいものだ。気分一新でもある。

今日は何もアポイントが入っていない。昨日もウォーキングをしたが、今日も晴れ渡る秋空の下、2時間半のウォーキングを楽しもうと思う。そして、新しい10月の月を迎えようと思う。

「できた人」とは縁遠い私だが、歳を重ねて少しずつ人とのトラブルは少なくなってきたように思う。銀行時代の21年間は銀行員から外れた、いいように言えば「型破り」の銀行員人生を送っていたが、やはり壮年と言われる脂ぎった歳にもなると「そろそろ銀行員らしくなってくれ」と言われることが多くなった。課長以上になると、そうならないと偉くなれないらしい。

バブルが弾けて、銀行は180度変わらなければ生き延びることができない時代になった。銀行から言わせれば、お客様でなく、大蔵省を向いて仕事をしなければならない時代になったのだ(今もそのようだ。楽な仕事はどこにもない)。 自らもいろいろな事件を起こしたり、身に降りかかってきたこともなにやかやあった。半沢直樹もどきのような"若気の至り”もあった。 そして、前後の見境もなく銀行を飛び出したのだが、今となっては「結果オーライ」だと思っている。そして、苦労を楽しむ心境で仕事ができるようになった。

ビスマルクは「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言ったとか。
私は愚者であるがゆえに、机上で歴史を学んでも、それは血肉になっていなかったのだろう。すなわち、愚者であるがゆえに自らの経験からしか学ぶことができなかったのだ。それゆえ、還暦を過ぎてから漸く”天から与えられたミッション”の一欠片を悟ることができたというところだ。 だから、私には、ミッションを果たすには”長生きすること”が必須なのだ。
夭折した人は天才か。幼くしてミッションを果たしたのではないか。
私は愚者であるがゆえに長生きしてミッションを果たしたいと思う。

ビジネスは「商才がある人」でないと成功しないと言われるし、世の中の人たちはみんなそう思っている。
水戸黄門漫遊記でも悪徳代官と悪徳商人がヒール役になっている。江戸時代では士農工商の社会であり、商人が身分は一番低い。商人は術策を弄する強かな人間であると思われているからだ。 しかし、そうではない。

愚者なりに私の経験から言わせていただければ、ベースにピュアな心がないと人は付いてきてくれない。北島三郎の「兄弟仁義」ではないが、 ♪俺の目を見ろ 何にもいうな♪
目が美しく澄んでいなれればならないのだ。

術策を弄する人たちは、決して世の中を動かすことはできないと思う。志高い仲間たちが集まって事を成すのでなくては大事は成し遂げられないのだ。

大人になることは決して濁世に染まることではない。濁世に生きながらも、主義や純潔を固守して、目的を果たすことが本当の賢い大人であると言える。

妥協するのではない。心から思うところを説き、相手の心を開かせてこそ、正道を貫き、夢に近づくことができる。
そのことを忘れてはならない。

小林 博重

OUEN塾とOUEN Company

真夜中1時過ぎに目覚める。
昨夜、ビジネスパートナーの野本さんから別府温泉の入浴剤をいただいた。一般に市販されているものとは一味も二味も違うらしい。入浴後は汗が止まらなくなるほどデトックスされるらしい。 私の風呂は烏の行水なのだが、それでは入浴剤を入れる意味がない。というので、風呂温度が適温になる前から長い間風呂に浸かった。 温泉に浸る時も烏の行水の私だが、せっかくのビジネスパートナーからの心の籠ったお土産だ。今までに一番というくらいの長風呂だった。 風呂上がりに身体が火照っているのか、夕方の気温は高くないにも関わらず扇風機を使わずにはいられなかった。これは入浴剤と長風呂のせいなのか。 昨夜は8時過ぎに床に入ってぐっすりと5時間の就寝で目覚めたところだ。このブログを書いて、もう一寝入りしようと思う。

野本さんは、これからのOUEN Company(OUEN ビジネス)について打ち合わせをするために事務所にいらした。
朝食のおり、妻に「外苑の銀杏並木と青山通りがぶつかる青山通り沿いに、最近「つけ麺屋」ができたのをウォーキングの時に見つけたので、そこに彼女とランチするつもりだ」と話したところ、妻はタブレットで調べてくれて、それは「三田製麺所」というお店で、このメニューがお勧めだと。席はあまり多くないから、お昼の時間を少し外して出かけたほうがいいとのアドバイスをいただく。

ということで、少し事務所で雑談をしてランチに出かけた。
私は最近なぜか「つけ麺」に凝っていて、外食する時はいつも、つけ麺屋を探している。そんなことで青山につけ麺屋ができてとても喜んでいる。

事務所に戻って、本題の打ち合わせをする。北九州と東京での2拠点でのビジネス展開を考える。
それではOUEN 塾でお世話になっている北九州市産業経済局の杉本課長にお会いしてみたら、というので、野本さんが北九州に里帰りする11月初めにアポイントをいただいた。 そして、OUEN塾の協賛企業を中心にビジネスを展開することを考えよう。OUEN塾とOUEN Companyの有機的展開が不可欠なのだ。

コロナでOUEN塾もOUEN Companyも当初考えていたものと大きく様変わりしてしまった。
コロナを災難と思わず、磨き砂として、奇貨として、新しいビジネスチャンスにチェンジすることだ。

先はなかなか読むことはできないが、12月までは雌伏の期間だ。福岡・北九州のOUEN塾も来年2月は一年延期する。
来春からのOUEN Japanビジネスを見据えての今を考えよう。先は明るい。想えば叶う。

ということで、一寝入り。

小林 博重

「生きる」とは、

土曜日は2時過ぎに帰宅した。少し休んで事務所に行く。いろいろと仕事が溜まっている。九州の出張先へのメールも出さなければならない。月末の作業もある。
なんだかんだで土曜日に終えたかと思いきや、思い出したこともいくつか出てきて、日曜日は早朝から昼過ぎまでバタバタと時間が過ぎた。やっと落ち着いたのが日曜日の13時過ぎだった。

14時から16時半まで2時間半のウォーキングで心身をリフレッシュする。

仕事があること、自由があること、好きなことをすること、少し心に余裕を持つことで、生きている喜びを感じることができる。

コロナのせいもあるのだろうか、芸能人の自殺の報道が頻繁だ。昨日も竹内結子さんが亡くなった。お子さんも2人目が生まれて順風満帆だったろうに。人への気配りも欠かさない、人間として「できた人」だったようだ。三浦春馬さんも真面目で真摯に人生を生きていた青年だったとか。

真っ直ぐに生きている人が、何らか人生の壁にぶつかって死を選ぶ。ボーッと生きている人は何も考えていないので、ノホホンと生きているし、生きていける。

冷静に自分を見つめることや、家族やお世話になっている人たちのことに思いを致せば、死を選ぶことはないと思うのだが、その判断をできなくなるから自死に至るのだろう。

私も人生のある時期に、そのような思いを持ったことがある。それは何年か続いただろうか。

「生きるとは何か」「自分の存在意義は何か」等、直ぐに結論が出ないことを考え出すと止まることがない。考え方次第なのだと思うが、それが大きな壁となって絶体絶命の心境になる。

「生きる」とは、生まれてきた原点に思いを致すことではないか。

奇跡としか思えない確率で、この世に生を享けた。そして自分に与えられたミッションを見つけた時、人はその生を全うして、そのミッションを果たそうと思う。

自死に至る人たちは、真剣に自分に与えられたミッションを探そうとしていたのだが、探しきれなかったか、探しきれなくとも、そのミッションを見つける「道」を見つけることができなかったのだろう。悲しいことだ。

川棚町のカラオケで、ある人が「暁に祈る」を歌った。この歌は軍歌ではあるが、その1番の歌詞を聴いて、私は人間愛、家族愛、平和の歌のような気がした。

「暁に祈る」
ああ あの顔で あの声で
手柄頼むと 妻や 子が
ちぎれるほどに 振った旗
遠い雲間に また浮かぶ

戦時中である。
「手柄頼む」としか言えない時代だ。「手柄なんかどうでもいい。何がなんでも生きて帰ってきてほしい」というのがほんとの心ではないか。 「ちぎれるほどに」手を振った心境には心が痛む。涙が出て止まらない。それほどの家族愛なのだ。戦争は悲しい。平和であってほしい。

○○ファーストなど、世界のリーダーであるべき米中の指導者は果たして温かい心を持った人間なのだろうか。

強く生きることだ。温かく人を思うことだ。

レイモンド・チャンドラーは小説「プレイバック」で、私立探偵に言わせている。

「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」
と。

小林 博重

大村サービスエリアから大村湾を臨む。

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くじゃく荘から大村湾を臨む(2)。

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くじゃく荘(川棚町)ベランダから大村湾を臨む。

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長崎県川棚町の夜を堪能する。

今は、9月26日午前3時前。23日からの3泊4日の九州出張を終えて、10時45分長崎発羽田行のANAで東京への帰路に着く。

昨日はイシマルの石丸専務、クリーン・マットの田中専務、丸本の西川社長を訪問した。いずれの会社も長崎市田中町の卸団地にある。
この団地は約半世紀の歴史だそうだ。お会いしたお三方とも30〜40代の若い2代目の経営者。私のこどもの世代だ。半世紀前、私の同年代の父上たちが会社を起業し、息子たちの代にバトンタッチする。私も次世代にバトンタッチする年代だと思うと、寄る年波を感じざるを得ない。あっという間に馬齢を重ね、68年の年月が経ってしまった。人間の命の有限さを感じる。しかし、最後の一花を咲かせてみたいと強く思う。

長崎駅からシーサイドライナーで佐世保方面に向かう。田口一信先輩から「大村駅改札で待っている」と連絡をいただく。わざわざ大村駅まで迎えに来てくださるのだ。田口さんが東大応援部を卒部されて、私が入部した。4年先輩だ。部活動をご一緒したわけではないが、半世紀の交流が続いている。 今回は、半分仕事、半分プライベートで先輩を訪ねた。田口さんはとてもお喜びになって私を歓待してくださる。
田口さんと同期で前古賀市長の中村隆象先輩にお声をかけていただき、中村さんも福岡県古賀市から2時間かけて長崎県川棚町まで来てくださった。ありがたいことだ。

東大応援部とはこのような温かい人間同士の集団なのだ。私は昨年までOBOG会である赤門鉄声会の幹事長を10年間仰せつかっていたので、他のOBOGよりも多くの先輩後輩との心の繋がりができた。私を幹事長に指名していただいた安田信託銀行の8年先輩でもある井口一弘さんのおかげである。 今回の田口さんを訪ねたわけも、井口さんからのアドバイスをいただいたことがある。東大応援部に入って良かったとつくづく思う。

大村駅前から田口さんの運転で川棚町にある国民宿舎くじゃく荘に行きチェックイン。くじゃく荘は大村湾に面しており、小高い丘の上に建っている。浴場からは風光明媚な大村湾が一望できる。
くじゃく荘で温泉に浸かり、6時から食堂で3人で夕食だ。美味しい酒肴を堪能しながら昔話に花を咲かせる。私はOUEN Japanの活動の他、その一環として九州・長崎IRの話をする。お二人とも「雲を掴むような話だな。何が協力できるだろうか」「小林ならやるだろう。できると思ったから関わっているのだろう」「気をつけることはいろいろあるだろうが、人の話を素直に聞いて、これはと思ったら果敢に行動することだ」「佐世保市長は県会議員時代の仲間だ。人脈はさほど多くはないが、佐世保市の企業経営者を何人か紹介しよう」「佐世保のため、長崎のため、九州のために、頑張ろうとしている小林を応援しよう」「小林を応援しよう。頑張ってくれ」と、身に余るありがたいことばをいただく。東大応援部は素晴らしい部だ。

二次会は川棚町の繁華街にある「プラチナ」というクラブだ。ホステスは皆マスクをしていてよく顔が分からない。会話だけを楽しむ。 私たちは、やはり3人とも前期高齢者だ。持病の話が話題になる。リュウマチ、高血圧、痛風、五十肩、糖尿病等。
身体にガタが来ないと死を素直に受け入れられない。どこかしこガタが来ているから死を意識し、後悔しない人生を送りたいと思う。この世に生きた足跡を残したいと思う。そんな会話に20〜40代のホステスは話を合わせる。ホステスも老人相手に大変なことだ。1時間で12,000円しない。1人4,000円だ。 田口さんは三次会にカラオケに行こうというので、「トミー」と言ったろうか、カウンターでカラオケを歌う。
今日の朝ドラの「エール」で流れていた、古関裕而作曲の「暁に祈る」から始まって、同じく古関裕而作曲の「若鷲の歌」。三波春夫、村田英雄、伍代夏子、川中美幸、坂本冬美、長山洋子、と昭和に流行った演歌がほとんど。若くはない。

ビジネスパートナーからは「夜のクラブ活動はご法度」と釘を刺されていたにも関わらず、それは百も承知で、久しぶりの応援部交流会を楽しむ。透明シートが貼ってあって、開放感はない。徹底的に酔うことはできない。それでも高歌放吟するとストレスは解消できる。ちょっと3密だったが、それなりの対応はした。感染には至らないだろう。 川棚町は今のところ感染者ゼロだと言う。

有意義な九州出張だったと思う。また来月来ることになるだろう。第二のふるさと九州のために後半生を働き抜こうと改めて思う。

小林 博重

長崎の真夜中に目覚めて考えたこと

如何に人脈をつくるかとか、如何にホットで価値ある情報を入手できるかとか、そんなノウハウ本が書店で売っている。人脈や情報は、営業パーソンの命ともいえるものだから、彼らはそのようなノウハウ本に飛びつくのだろう。

しかし、そんなノウハウで勝負して勝つことはほとんどないだろう。その理由は、ノウハウやテクニックでは人の心は動かせないからだ。人が心をオープンにする時は、相手が何も心を閉ざさないでオープンにしてくれた時、それが初対面であったとしても本人の思いとは裏腹に心はオープンになるものではないかと思う。これは私の経験からそういうことができる。

しかし、バカの一つ覚えで何でもオープンにすればいいというものではない。それではお人好しのビジネスができないどうしようもないバカである。
見るからに人がいい素直な憎めない人柄の人にお目にかかることがあるが、そのような人とは「普通の友人」になってもビジネスを一緒にしようとは思わない。逆に、あまりにもしたたかで人を利用してやろうと思っているのがところどころに垣間見える人は、こちらもビジネスライクに付き合う強かさを持っていればそれなりに付き合うことをするが、そのような人を決して「普通の友人」にしようと思わない。どちらもどちらだと思う。

あるケースを話す。
初対面の人とあっていろいろ情報交換する時があるが、その人は私が信頼をしているなかなかの営業パーソンで人脈を豊富に持っている人の紹介だった。

"人は人を呼ぶ"
いろいろ初対面はあるが、こんな初対面は特別で最高だ。初対面ならこのような初対面をできるだけ多くつくることだ。ホットな本音の情報が入ってくる。

その情報を心が通じている、人間関係ができあがっている人に話す。
特に何かを期待していて話すわけではないが、話として話す(全く関係ない話をするわけではない。関係あるがこれを期待しているから話すわけではない)。それに想定外の反応があって、考えていたことが前に進むことがある。情報が情報を生むのだ。人脈が人脈を生むのだ。

人とはそんな本音を語り合う人間関係をつくっておきたい。
「類は友を呼ぶ」「類は類を呼ぶ」という諺があるが、同じ心の人同士が集まるという意味だ。だから自分を磨いておかなければ、それに応じた素晴らしい人は集まってはこない。

真夜中に目覚め、そんなことを考え、blogを書こうと思った。今日は「長崎の夜」だ。

料亭の若い仲居さんに「今日は長崎は一日中雨だったのですか。歌にも"長崎は今日も雨だった"というヒット曲もあるし、長崎は雨が多い町なんですか」と聞いたら「その歌、何ですか。長崎の雨の日は他の町と同じだと思いますが」と返事が返ってきた。

そうか、クールファイブのこの歌は昭和に流行った歌謡曲だ。若い彼女は知らないんだ。そしたら、瀬川瑛子の"長崎の夜は紫”も知らないだろう。勿論、藤島一郎の”長崎の鐘”は言うに及ばず、春日八郎の"長崎の女"も知らないだろう。私の頭は昭和でいっぱいだ。今は令和の時代だ。 また、歳を実感した長崎の夜だった。

まだ、1時19分だ。もう、一寝入りしよう。

小林 博重

特急かもめで博多から長崎に向かう。

23日〜24日の2日間、北九州市〜古賀市〜福岡市の企業を訪問し、博多から特急かもめで長崎に向かう。訪問先はOUEN塾の協賛企業が中心だ。今回の訪問趣旨が九州・長崎IRであるため、先方には、OUEN塾協賛のお願いとは全く違う印象を持たれたようだ。

OUEN Japanは大学生・留学生や、彼らを応援いただいている企業の皆さんの応援団であり、延いては地方創生に貢献するNPOであるから、最終的に目指す『地方創生』であることには変わりはないのだが、それが皆さんの腹にストンと落ちることは、ちょっとやそっとでは難しいように思う。 私の思考回路は一般的ではないと自覚しているので、あくせくしないで気長に心を持つことだ。

そして、様々な業務に従事している方々にお会いするので、彼らにその業界のしきたりやルールを教えていただく。
私がよかれと思ってお話しすることが、その業界にとってはとんでもない八方破れだったりする。それがオーナーでなくサラリーマンであったりしたら、その人の人生を狂わすことであったりする。間々、私の常識は世の中の非常識であることがあるのだ。

論語の『恕の心』とは相手の立場に立つこと、相手がどんなことを考えているのか察することなのだが、私は、そのことを分かっていても「これが正しい」とか「この方が理にかなっている」とか、私の考え方を押し付けるところがないわけではない。 物分かりのいい大人であることは、いいこともあるが、場合によってはそうでもないことがよくある。
私には今、そのことをよく分かったメンターが天から舞い降りてきたのだから、なんだかんだあったら相談に乗ってもらい、素直に耳を傾けようと思う。

博多⇄長崎はJR長崎本線の特急かもめで約2時間だ。自由席だが、乗客は一車両に10名いない。
今夜は長崎市本社のクリーン・マットの田中社長と松尾常務との楽しい懇親の席を持つ。

九州創生の起点としての長崎は、そのネームバリューからして悪くない。
中村調理製菓専門学校校長の中村哲さんは私の東大応援部の一年後輩だが、本日の訪問のおり、彼が言っていたことは、
「明治維新の時、九州で一番栄えていた人口が多い町は長崎だった。佐世保も軍港として栄えていた。今は福岡が九州の中心と誰もが思っているが、それはこの一世紀に福岡の市民が頑張ってきたからだ。福岡もこのままずっと栄え続けるかかどうかは今に生きる福岡市民の努力にかかっている」と。

長崎も佐世保も、一世紀前の栄光を思い起こして、100年後には、長崎県が今の九州を創ったのだと誇れる自治体になってほしいものだ。 OUEN Japanも微力ながらその一翼を担いたいと思う。

小林 博重

9月の九州出張とミッション

今日から土曜日まで、3泊4日の九州出張(北九州⇨福岡⇨長崎⇨佐世保)だ。メインは、九州・長崎IR&スーパー・スマート・コミュニティの企業へのプレゼンだが、コロナ禍で体制の変更を余儀なくされた、これからのOUEN Japanのあり方の模索でもある。

OUEN Japanは、日本人大学生・来日留学生の応援団だ。そして、それに加えるに、彼らを応援してくださる企業の皆さんの応援団でもある。

そして、OUEN塾は、企業と大学生・留学生との交流イベントだ。そのスタートを、OUEN Japan理事の梶山千里先生(福岡女子大学理事長兼学長、元九州大学総長)の後押しもあって福岡で開催し、第2回から北九州が加わり、今年2月、コロナの前に第3回を開催した。

しかし、コロナ禍で来年2月開催予定の第4回OUEN塾は一年延期することを余儀なくされた。
加えて、大学では授業がオンラインのため、新入生とコンタクトできないため勧誘活動ができない。悪いことは続くもので、北九州の2〜3年生学生リーダーの殆どは退部してしまい、現在のリーダーは最上級生である4年生が殆どだ。彼女たちは来年3月には卒業してしまう。

今のOUEN塾の喫緊の課題は学生リーダーを採用することだが、その方策が思いつかない。この際、学生リーダーはゼロからのスタートにならざるを得ない。

しかし、今まで協賛いただいた企業の皆さんは卒業ということはないので、企業とのパイプを太くすること、新しい企業を増やすことだ。OUEN Japanは企業の応援団でもあるのだから、企業に喜んでもらうビジネスサポートをすることで、企業とのパイプを太くすることだ。OUEN塾の活動は、学生リーダーたちが集まってきたところでリスタートしようと思う。

OUEN Japanはどんなサポートができるだろうか。私は月に九州に出張するとしても1週間。
それもテリトリーは長崎や佐世保が増えたので、福岡や北九州を訪ねる頻度は減らさざるを得ない。どうしたものか。ない知恵を絞っていた。

ところが、天は私に味方してくれたのだろう。
誰にも負けない努力をしていれば、清い志で精進していれば、神さまはかわいそうになって手を差し伸べてくれる。稲盛和夫さんはそれくらいの努力精進をしなさいと仰る。努力精進していないから神さまは手を差し伸べてくださらないのだ。全て自業自得だと。

そんな時、天から素晴らしいビジネスパートナーが舞い降りてきた。美しい天女だ。
彼女は北九州出身だ。長崎には祖父母の家があって、子どもの頃はよく長崎に出かけていたのだと。そして、これからは東京と九州とに均等に住んでビジネスをしたいのだと。OUEN Japanの九州出張所にもなれるだろうと。ほんとかいな。そんな奇跡的なことがあるのだろうか。 さだまさしの「奇跡」という歌が頭に浮かんだ。さだまさしはちょうど長崎出身ではないか。

「九州創生は長崎から」と思っていたが、九州の兄貴分は福岡と北九州だ。福岡と北九州が長崎を援けて、九州のリーダーとして九州を引っ張っていく、そのサポートをOUEN Japanがしよう。それが私のミッションだ。

小林 博重