2020年 8月 10日の投稿一覧

李登輝元総統を偲ぶ。⑵

李登輝元総統著の『台湾の主張』を再読している。1999年に発刊された書物だから、20年以上前だ。その内容は全く色褪せていない。アメリカと中国の2大国の政治経済面での対立が米ソの冷戦以来、それ以上の危機的局面に至っており、日本の立ち位置をどう考え行動するか、今こそ政治家の能力と胆力が問われている時だと思う。

李登輝さんは台湾元総統。「政治家」であり「哲学者」であり「宗教家」の3つの顔を持つ「類稀なリーダー」である。
残念ながら、日本には李登輝さんのような政治家は存在しない。日本人として大いに悲嘆すべきことだ。

作家・エッセイストの阿川佐和子さんが産経新聞朝刊(令和2年8月10日)で李登輝さんの追悼を寄せている。その題は『日本の首相だったら』だ。『聞く力』〜心を開く35のヒント〜のベストセラー作家。週刊文春の名物対談『阿川佐和子のこの人に会いたい』は今年で26年目だとか。その日本の知性が李登輝さんへ追悼を語った。

「李登輝さんと2度目にお会いしたのは東日本大震災の翌年の12年で、日本中がショックを受けていた時期だった。そんな中で、台湾の人たちがとんでもない額の義援金(250億円以上)を送ってくれた。まず、そのお礼を言わなければならないと思って週刊誌の対談に臨んだのが、逆に『日本人は何一つ自信を失うことなんかない』と励まされて半分泣きそうになった」

「李登輝さんは本当に大きな人だった。体も大きいけど、どんな人に対しても柔らかく心を開き、相手の立場に思いを馳せ、安心するような語り口で話す。これほど地位が高くなってなお、偉そうなところが微塵も感じられない。しかし、いざというときは信念を曲げない強さがある。中国、そして国民党への対応を考えても、李登輝さんなくして、現在の台湾の民主化はなかっただろう」

「何より思ったのが、政治家ってこういう人なのね、ということ。人間としてオーラがあり、人を惹きつける力を持っている。政策どうこうといったレベルではない哲学があった。李登輝さんは『信仰を持ちなさい』と仰ったが、それは仏教やキリスト教といった話ではなく、これのために命を懸けられる、といえるものがあるか。謙虚さや反省もそこから生まれると」

「李登輝さんが日本の首相だったらよかったのに。こんなに日本の歴史に詳しくて、日本の置かれている状況を感情的にならず冷静に判断することができて、しかも日本をここまで深く愛している人は日本人にもいない。首相をやってくださらないかな、と心から思った」

当に『巨星落つ』の心境である。

小林 博重

私が付き合っている人は、どんな「しんゆう」なのか

あるちょっとした出来事があって、ネットで「心友(しんゆう)」を検索してみた。

一番に出てきたのは『親友、心友、信友… 「しんゆう」を使い分ける子どもたち』と題したコラムが出てきた。

そこに書かれてあったのは、
〜先日、小学6年生の長女が近所の女の子と交換しているノートの表紙に「信友」の文字を見つけました。娘の学習不足を心配しつつ「しんゆうは『親友』と書くんだろ」とたしなめると、「知ってるよ。でもこれでいいの」と平然としています。意外な反応を不思議に思い問いただしてみると、そこには興味深い理由がありました。

「しんゆう」を漢字でどう書くかと問われれば、読者の皆さんの多くは迷わず「親友」と答えるのではないでしょうか。長女が使う学習国語辞典には他の漢字を使う「しんゆう」の見出しはありませんし、私自身の記憶をたどっても、小学生のころ「信友」と習った記憶はありません。

長女の交換ノートには他にも「新友」「親友」「心友」が見つかりました(本人の了解を得て閲覧)。
たわいのない文章の中に散りばめられたこれら「しんゆう」は、子どもたちが作った言葉なのでしょうか。調べてみると複数の小型国語辞典に「心友」を見つけることができました。50万語を網羅する日本国語大辞典第2版に当たって見たところ、「心友=同心の親友。心を許し合っている友人」「信友=誠意のある友人、信頼できる友」のほか、「真友=ほんとうの友人。真実の友」があり、「親友」以外も古くからある言葉だということも分かりました。

驚いたことに、子どもたちの使う「しんゆう」には序列がありました。「新友」は「新」から類推できるように、最近仲良くなったともかのこと。付き合いが徐々に深まり仲良しグループの一員となった証が「親友」。もっとも打ち解けてくると心を許す「心友」で、最も信頼を置く大切な友である「信友」となるわけです。(後略)〜

「しんゆう」と言ってもたくさんの漢字があり、「友」の意味は漢字によって全て違うのだ。子どもは子どもの世界があり、彼らなりの人間関係はそんなに単純なものではないのだ。彼らの心はナイーブで、その襞は柔らかく傷つきやすいのだろう。私たちおとなは、自分勝手で鈍感(単純)なのだろうと思う。

人生の半分以上を終えた今、私にはどんな「しんゆう」がいるのだろうか。
私にとって人間としての人との付き合いは全ての人と「対等」であると思っている。
その意味で、人は全て「とも」であり、その付き合いのレベルは「ピンからキリまで」であり、数えることができない(これは人のレベルではない。私との距離感の差であり、距離が狭い人たちは家族ということだろう)。

新友から始まり、親友になり心友になり、信友になる。それは真の友、「真友」でもあるのだろう。後者になるほど私とは距離感は近いものになる。

「とも=全ての付き合う人間」には、気をつけて付き合う人もいる。その見極めがおとなということだろう。

「しん」の字には、その他にも、いろいろある。
針、深、芯、辛、酸、震、慎、伸、神、清、侵、進、等々

どんな「しんゆう」か、じっくりと、見極めて、おとなの付き合いをしたいものだ。

小林 博重